blog@雲ヶ畑奮闘記

京都雲ヶ畑で【七和三洋の暮らし】を実践する【これから日本人】の覚え書
<< April 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

- | permalink | - | -

自然の経済性

開発か自然保護か、環境か経済か、といった対立軸ではなく、
「経済的で自然保護にもなる生活法を発展」させていく方法を考えよう。

これは本質的な「経済と環境の両立」という意味であって、「環境に配慮したエコ商品消費社会」のような「エコ」経済発展ではない。
そもそも自然は超経済的で、無駄がなく、しかも完全なエコシステム(生態系)である。
自然保護と聞いて、博物館に保存された文化遺産ごとく分離して考えてはならない。
自然とはまさに生きたシステムであって、化石のような文化遺産とは違う。
当然、文化それ自体も生きたまま受け継がれていく「システム」そのものでなければ、単なる趣味の世界の、ぜいたくな閲覧品である。

人間はこの自然の「生きたシステム」を再発見しなければならない。
そこには最高の経済性が見出せる。

たとえば、薪ストーブの利用を考えてみよう。

薪ストーブは、冬には最高の暖房、調理器具だが、薪をすべて購入する現代の消費スタイルならかなり不経済な「趣味の」「ぜいたくな」産物である。
しかし、暖房や調理に使う薪を自ら山に行き調達してみるとどうだろう。
山で自ら手に入れた薪を使うことで燃料コストが削減するばかりでなく、人間の自然への理解と関心を高め、また森林を保護するという関わり方が無理なく可能である。
つまりこの行動によって、暖房や調理のエネルギーコスト、自然教育のコスト、森林保護・管理コストは超経済的にデザインされ、「生きたシステム」として最適化される。
これが自然の経済システムの利用である。

実質タダの薪を購入することは、個人の負担を増大させるだけでなく、自然教育の機会を奪い、森林の保護管理に個別のコストを要求する。
これが分断された経済システムである。

新たに経済性を計画する必要はない。
自然を求めることで、すべては必然的に準備されていくのである。
つまり、自然を求めることは、必然として超経済的なシステムが与えられるということだ。
その自然が与えるシステムを間違うことなく利用し、自然の教えを学んでいく技術を身に付けていくことが重要である。

利己的な考えや一過的な経済性を求めてはならない。
自然の教えは、現代の経済とは考え方が違うものだ。
それが最適なバランスを生み、最高の経済性を発揮する。

今、思うこと | permalink | comments(26) | trackbacks(2)

なぜ世の中はかくも忙しいか

とかくこの世は忙しい。

忙しく働かないと生きてはいかれない。

いらないものを作って売れなければいけない。

そうでなければご飯が食べられぬ。

安月給なので、あまり高いものは贅沢だ。

そうして、安い食材を買う。

安い食材を作るため、業者は大量生産でコストを抑える。

添加物のたくさん入った鮮度の関係ないものは大量生産に向いている。

そうしなければ、業者の”儲け”が無い。

そういうものを食べて、病気にもなるべきだ。

そうしなければ、医者や医療機器メーカーが食えない。

薬局も必要だ。

薬屋や医療機器メーカーはいらない薬や機械をたくさん作って売らなければならない。

そうしないと、そこで働く従業員が食えない。

従業員は稼いだお金でいらないものを買わなければならない。

新しい家電やパソコンや車を次々買わないと株価が上がらない。

そうしないと株主が儲からない。

株主が儲からないと投資が減って経済がまわらない。

経済がまわらないと貨幣価値が下がる。

貨幣価値が下がると経済的に不利になる。

経済的に不利になると外国から狙われる。

そうならないために最新の武器で防衛しなければならない。

最新の武器は恐ろしくお金がかかる。

最新の武器を買うばかりではソンだから、自国で生産しなくてはならない。

そのために先端技術を支えなくてはならない。

先端技術は恐ろしくお金がかかる。

恐ろしくお金がかかるから、いらないものをもっと作ってどんどん売らなければならない。

そうやって忙しく働かないと生きてはいかれない。

そうなんだ。

とかくこの世は忙しい。
今、思うこと | permalink | comments(4) | trackbacks(0)

厳島神社の大杉、切られる。

今日、雲ヶ畑にある厳島神社の大杉が切られました。ちょうど鳥居の手前、入り口付近にあった大杉です。樹齢はわかりませんが、直径は1.5mくらいあったでしょうか。それが今日切られることになりました。

理由は「倒壊の危険があるため」。先ほど切り株を見てきましたが、確かにところどころ腐朽していました。堂々とした巨樹であったのに残念です。林業の方に聞いた話ですが、「杉は、根元からは折れない」ということなので、せめて立ち枯れさせてもよかったのでは?と、ふと思いました。

自然農の福岡正信さんの著書「わら一本の革命」の中に、「鎮守の森は 植物生態学を知って 百姓が植えたのではない 人間の知恵のおかげで大木に育てられたのでもない」というのがあります。お宮があるのはその付近で最も清浄で、神聖なる場所。そこに社を建ててきたのは昔の日本人の「自然を知る能力」の確かさだと思います。その能力は文明の発展と共に衰退し、いまやその証人である巨木も寿命を向かえ、消滅しようとしているのでしょうか。

とはいえ、まだこの神社の鳥居付近には、3本の杉の大木が残っており、訪れる人を迎えてくれます。
今、思うこと | permalink | comments(2) | trackbacks(0)

オシム語録

最近、日本代表監督イビチャ・オシムの記事をよく読む。なぜかそれも、むさぼるように読んでいる。辛辣で率直でしかもクセのある彼のことばは、”オシム語録”と呼ばれ、本もベストセラーにもなっているが、そういった話題性という理由からではなく、率直に今の自分に合っているから響くのでる。

彼の目指すサッカーは「日本オリジナル」。ブラジルでもイタリアでもフランスでもない日本のサッカー。それがオシムの目指すチームの姿である。奇しくも拙著のコラムで私は”日本のサッカー”の必要性を説いた。おどろいたことに、それと同じことをこの外国人監督は指摘し、既に実践しているのである。

サッカーのコメントであるが、”オシムのことば”は日本に対する、また日本人に対するメッセージに思えてくる。「準備不足」「子供病」「指示を待つな、自分で考えること!」「スターは要らない」「走って、走って、走れ!」…これらは、現在の日本人の”習慣”や”精神性”に訴えかけたメッセージだ。日本を代表する、しかもプロの選手達が、これらいわば”当然であるべき”ことをいまさらながらに言われる屈辱。これらはもはや、プレーする選手達だけの問題ではない。われわれ大人も充分に省みなければならない問題である。

また私は、先のコラムの中で「サッカーやあらゆる競技・表現には国が現れる。」とも書いた。日本のサッカーには、”現在の日本”の病理が現れている。特に歴史の若い日本のサッカーにおいては、顕著にその未熟さが現れている。オシムのことばは、われわれ日本人に「なぜ日本の若者は成長できないのか?」、「なぜ日本の大人はこんなに未熟なのか?」、「大人なのに、なぜあたりまえのことができないのか」と問うている。国・社会を形作っているのは”人間”だ。政治でも経済システムでもない。問題なのは人間、そして教育である。その教育の問題は、われわれ自身の問題ではないか?それを、彼は指摘しているのである。

オシムは若い選手しか呼ばない。それは、既にプロとして何億円も稼いでいるスター選手のプライドを傷つけ、ブランドに泥を塗り、権威を失墜させる行為を、選手自身が耐えられないからであろう。若い選手は違う。その向上心ゆえ、またそのプライドを燃やし、果敢にトレーニングに耐える、”熱い鉄”だからである。冷え固まった鉄はもう打っても成長しない。打てば相手を傷つけ、壊れゆくのみである。もし仮に古い鉄がもう一度、熱く輝くことになるなら…。日本の教育もまだまだこれからよくなっていくだろう。

オシムは良い指導者である。コーチである。先輩である。「サッカー学校はすばらしい学校だ。ここを卒業したなら、その人の人生はすばらしいものになるだろう」この言葉は、どの道にもあてはまる言葉だ。自分もそれを体現できるように努力していきたい。

日本代表監督としての彼の成功は未知数だけれども、それ以外で何か日本に大きな功績を残してくれる人だ、と私は確信している。

今、思うこと | permalink | comments(2) | trackbacks(0)

「まとも」ということ

何も今にはじまったことではないが、最近「まともなこと」が少なくなったと思う。というより、何が「まとも」か、ということすら判らなくなってきている。
世間を見渡しても「まとも」なものが少ない。

まともな大人、まともな先生、まともな家庭、まともなすまい、まともなモノとモノづくり、まともな食事、まともな生活、もともな医療、まともな教育、まともな政治、まともな考え方、まともなこころ…。

間違っても、「まとも」とは「一般的」という意味ではない。
これがイコールになるなら、「まともじゃないものが世間を覆えばまともになる」ということである。そんなことになったら、「お天道様が一体どこからでているのか」わからなくなる。
そんな馬鹿な話があってたまるか。

今の世の中、「まとも」をまともに実行することは、難しいのかもしれない。上記の「まともな」を「ふつうの」に替えて読んでみれば、生きていくのは容易い。楽でカンタンで、そのほうが都合がいいだろう。

しかし少しでも、「まともな」神経があるならば、その生き方は却って苦痛になる。
その道を踏み外さない、ということが重要なことになる。

いかに物事が、流行やファッションや、耳障りのいい言葉で飾られようとも、その本質が「まとも」であリ続けることが出来れば、それでいい。それがいいのだ。

だから僕は信じる道を行く。
その他に、真の価値などありはしない。
今、思うこと | permalink | comments(6) | trackbacks(0)
Profile
Links
New Entries
Categories
Archives
Recent Comments
和楽社中のホームページ
RECOMMEND
人間をみがく―『小学』を読む
人間をみがく―『小学』を読む (JUGEMレビュー »)
安岡 正篤, 安岡正篤講話選集刊行委員会
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
武士道
武士道 (JUGEMレビュー »)
新渡戸 稲造, 矢内原 忠雄
RECOMMEND
日本の目覚め
日本の目覚め (JUGEMレビュー »)
岡倉 天心, 入交 雅道
RECOMMEND
代表的日本人
代表的日本人 (JUGEMレビュー »)
内村 鑑三, 鈴木 範久
SPONSORED LINKS
MOBILE
qrcode